★この文章は筆者自身のために書かれたものである、という注意喚起
生成AIの推論能力の進歩は、数学という学問に不可逆な変化をもたらしつつあります。この変化に対して、肯定的な意見、否定的な意見、中立的な意見を含めて、いろいろな意見が交わされています。そして、時には諍いのように見えるやり取りを目にする場面が増えてきました。とりわけ、クレイ研究所が提示するミレニアム問題の一角であるナヴィエ=ストークス方程式に関する問題を、AIエージェントが「解決」したというニュースは、数学コミュニティを遥かに超えて世間の注目を集めています。この「解決」に関しては、いろいろな人たちが、ファクトおよび推測を交えて多様な意見を述べています。しかし本稿では、ナヴィエ=ストークス方程式に関する一連の事件について深く述べるつもりはありません。
生成AIが数学に対して本質的な影響を与え始めたことが明らかになってから、私はずっと「人間の数学者の心」について考えてきました。より正確には、「数学者を自認する私という個人の心」について考えてきました。私はどちらかといえば、生成AIに限らずテクノロジーの進歩に対してはできるだけ寛容でいたいと思っているタイプの人間であり、また本質的に新しいテクノロジーが社会に浸透することを防ぐことは基本的に不可能だと考えています。そして、生成AIの進歩によって数学に不可逆な変化が訪れる可能性が高いこと、それが査読システムに甚大な影響を与えるであろうこと、職業数学者でなくても数学的な成果を出すことができるようになることで数学が「民主化」されるであろうこと、そして職業数学者の仕事は一種の「芸術家」に近づくであろうということを『数学セミナー』の特集号に掲載した記事『生成AIは数学の夢を見るか?』とその後日談に書きました。
そんな私でも、実際にいざ「その時」がやってきたこの数週間の間は、相当に、心がかき乱されました。正確には「自分が想定していた以上に心をかき乱されている」という事実に狼狽しました。そして「私がこれまで考えてきた将来の予測には、何らかの見当違いか、あるいは圧倒的な解像度の不足が含まれている」と感じるようになりました。そこで、対面およびオンラインでの様々な人たちとの対話や、インターネット上に次々とアップロードされる世界中の人々の意見表明を貪るように読み込みました。しかし、その中に私の「心のざわめき」を鎮めてくれるものが見つかりませんでした。
そこで諦めました。外部に頼るのではなく「自分自身の心のざわめき」にじっと耳を澄ませるしかない、と思いました。考える材料は、もう自分の中に十分に溜まっているはずだと思いました。それからほどなく、現時点の暫定的なものではあるものの、私にとっては有用なある「世界観」を発見するに至りました。そして、それを私自身のために書き記すことにしました。また、もしかしたら誰かの役に立つかもしれない、誰かの「心のざわめき」を少しでも軽減するための、希望の光を見出すための、進むべき方向性を見出すためのヒントになりうる可能性がわずかながらあるかもしれないと考えて、ここに公開することにしました。
しかしこの文章は、あくまでも私自身のための文章です。そして、どのようなご意見も歓迎します(それによって再び心がざわめくこともあるかもしれませんが、それは将来のより大きなざわめきを鎮めるために必要なことだと思っています)。
★人間という情報処理システムと、紙とペン
数学はペンと紙だけでできる学問である、ということがよく言われます。あるいは、ついこの間までは、よく言われてきました。現実には、論文を執筆する際や数値計算のためにPCを使ったりしますし、共同研究者とのやり取りではメール・オンライン会議など様々なテクノロジーを駆使してきました。それでもなお「ペンと紙だけでできる学問」という謳い文句にそれなりの妥当性と説得力があったのは、数学という学問を特徴的なものにしている「証明」を、現実的な時間内で理解し、咀嚼し、展開し、組み上げることが、人間という情報処理システムによってしか行うことができなかったからです。つまり、我々は数学の証明を行うことのできるこの世界で唯一のシステムだったわけです。この状況は、今となっては驚くべきことに、人類史上、一度も変わることがありませんでした。
今回、生成AIの躍進によって、この前提が急速に崩れつつあります。もちろん、ここには(少なくとも現時点では)留保が必要です。「証明」という営みに必要となるすべての能力について現時点の生成AIが人間に優っているという事実はありません。証明には確実に良し悪しが存在し、良い証明を構想したり書き上げる能力については、人間にもまだかなりの分があります。しかし、「力技だろうと美しくなかろうと何だろうと、定理の証明を組み上げて完遂する」という能力について、人間を上回る面が生成AIに存在することは、既にほぼ確定したと言って良いでしょう。この「力技だろうと何だろうと、定理の証明を組み上げて完遂する」という能力が、これまでの人間の数学者の能力のポートフォリオのうち無視できない大きさを占めていたことは否定できません。証明を完遂させることができなければ確定した成果として(極めてごく少数の例外を除けば)認められないという強固なルールの下でコミュニティが形成されてきたという事実がある以上、生成AIが「数学という学問を行う能力は、人間の数学者の専売特許である」というこれまでずっと正しかったので自明の前提となっていた数学者のアイデンティティの一角を、強烈に突き崩しつつあります。そして、私はほぼ確信していますが、「証明」という営みに必要となる多様な能力を、近い未来に、生成AIは次々と獲得していくでしょう。少なくとも、私自身は、それを覚悟しています。
しかし、私に限らず、生成AIが数学に大きな影響を及ぼすと予感していた人々にとって、上記で述べたことについては、とっくに「覚悟」が決まっていたはずです。私もやはりこの点については、完全に覚悟が決まっていたのだということを今では信じることができます。それにもかかわらず、私の心が「強いざわめき」を覚えたのは、そのことによってもたらされる変化についての、ある見落としがあったからです。
私は、生成AIが証明という行為を代替してくれるならば、人間はそれを自在に指揮し操ることによって「夢を膨らませて、生成AIに実現させる」という仕事になるのではないかと思っていました。そして、そのようなことを指して「数学は芸術に近づいていく」と以前は考えていました。とにかく、数学という学問はもっと優雅で、気楽で、それでいてワクワクするものになると楽観的に考えていました。
しかし、この軽薄な「見通し」とは全く異なる環境が出現しつつあるのではないか、と今は思っています。この見通しの誤りこそが、私の認知的不協和を生み出し、心の強いざわめきを引き起こしていたようです(実際、このことに気づいてからは、将来についてある程度、すっきりと見通せていると感じています。もちろん、状況の変化によってまた見通しの修正が必要になる可能性は十分にありますが)。
結論を一言で言えば、数学者の住む数学世界は凄まじい勢いで、「熱帯雨林」化しつつあるのだと思っています。
★生成AIによって生み出される「熱帯雨林」
これまで、数学者が数学的世界を観測するためには、自ら数学的概念を作り出し、自ら対象を構成し、自ら定理を定式化し、自ら証明を行う必要がありました。数学的世界を観測することが、数学的な世界(あるいは事象)を自ら作り出すことと、ほぼ完全に同期していました。我々は人類が作り出したものしか観測することができない、という(物理学などと比較するとやや特異的な)制約下で歩みをゆっくりと進めてきたということになります。
例えば数学的な定理を花に例えるならば、定義は土壌、証明は光(エネルギー)に例えられると思います。そして、これまでの数学では、その「光」は人間の知力によって供給される必要がありました。そして、「光」は対象を見るためだけにも必要です。実際、数学的対象を観察するためには我々はそれを単に読むだけでは足りず、極度に高度に訓練された知性の光を照らすことによって初めてそれを見ることができていました。我々は、自らの知力によって発せられる穏やかな「光」によって草花を育て、観察し、継承してきた、と言えます。
しかし、生成AIの出現によって、この環境が一瞬にして全く違うものへと変貌しようとしています。生成AIは、そこに投下される圧倒的なエネルギー(電力)を背景として、目も眩むような「光」で数学世界をギラギラと照らし始めました。そのエネルギーは、数学者が発するエネルギーとは比べ物にならない莫大なエネルギーであり、我々がこれまで経験したことのない恐るべきスピードで植物(数学的定理)を生育させ始めました。それらは、数学者がこれまで僅かなエネルギーを無駄にしないように丁寧に育ててきたような、人間好みの植物であるとは限りません。人間の都合など全くお構いなしに生育し、四方八方に伸ばした枝葉(大して整えられもせず大量に生成された論文たち)によって我々の視界を塞ぎ、美しくもなく、少し歩くにも大量の不愉快な切り傷(認知的な負荷)を負わせるようなものです。そして、これまで人間が育て上げるのに一種の奇跡と多大な努力を必要としていた大木に近い大きさの木々(大きな未解決問題という大木)さえもが、生成AIの放つギラギラとした熱射によって、急速に、ほとんど暴力的とも呼べる速度で(しかし相当に歪に見える形で)成長する様子を我々は目撃しつつあります。そして我々は、その目の眩む光(生成AIのエネルギー)と鬱陶しい植物群(生成AIが生み出し形式化する定理群)を前にして呆然とし、あまりにも急激な変化に汗をかくことも忘れて、不快さの只中に放り込まれています。
★「熱帯雨林」サバイバル、あるいは数学2.0
自らの知力が発する「光」だけを使って、自分たちのために作り上げてきたはずの世界が、突如としてやってきた生成AIの発する熱光線によって全く異なる(そして不快さにまみれた)世界に変化させられていくのを見て、数学者が怒りを表明するのは自然なことだと思います。これまでせっかく丁寧に育ててきた美しい花々が、丁寧に耕してきた土壌が、大小さまざまな植物群に栄養を奪い取られ、覆い隠されていくのを前にして、絶望を感じるのも当たり前だと思います。私自身もその不快さの只中におり、忘れていたかのように突如として吹き出してきた大量の汗を何とか拭いながら、周囲を観察しています。しかし、数学世界に生きるものという立場から見た時、これは良くも悪くも、絶大な環境変化に過ぎないというのが私の出した現時点の結論です。
生成AIがもたらすものは、数学者の実存の危機ではありません。数学者が生息してきた数学的世界の環境の急激な変化です。
我々は、なんの備えも装備も心構えもなく、穏やかな光の世界から熱帯雨林の只中に放り込まれた、というだけのことです。もちろんそれは、数学世界に生きる「生物種」としての数学者にとって、深刻な生存上の危機ではあるかもしれません。しかし繰り返しますが、数学をするという人間の営みそのものの実存的な意味が失われるわけではありません。かつて我々が地道に育て上げて愛でた美しい花々は、暴力的に繁栄する熱帯雨林の植物に覆い隠されてしまうかもしれません。そんな世界で数学をしたくないと思う人も当然、いると思います。しかし、好むと好まざるとに関わらず生成AIの発する熱波は今後もこの世界に降り注ぎ続けるでしょう。いずれは、そのような熱波を人間にとって快適なレベルにコントロールする術も生まれるかもしれず、状況が改善していく可能性も十分にあると思います。しかし、生成AIによって数学世界の様子が以前と大きく異なったものになることは、もはや避けることが難しいのではないかと思います。
では、そのような理不尽な環境変化に放り込まれた我々は、どうすべきでしょうか。答えは「それぞれの判断に基づいてサバイバルする」ということ以外にないのではないか、と思います。もちろん、それは非常にタフな状況です。これまでの常識、定石は通用せず、どちらに向かって歩くべきか誰もわからず、闇雲に生い茂る熱帯雨林の植物を何とかしてかき分けて、自分にとって住み良い環境を探し出し、仮設の家を建て、食物を探すしかありません。しかし、熱帯雨林にも悪くない点が一つあります。とにかく大量に植物が生えている。それも、これまで想像もしなかった奇妙な形状の植物や、見たこともない大きさの大木が、美しくはないにせよ、大量に生え続ける。あまりにも雑多なので我々はそれを一つ一つ丁寧に認識し続けることもできず、進路を邪魔する植物は乱暴に切り拓き薙ぎ倒しながら進むしかない。
そうするうちに、それまで誰も目にしたことのない大きさ、色、形、味をした果実を手にすることがあるかもしれない。その果実の味を、人間の数学者が(人類で初めて)味わうことには、確実に人間にとっての意味があります。そのような果実を発見し、味わい、伝え、場合によっては栽培し増やしていくことが、数学者の存在意義の少なくとも一部になっていくのではないか、と私は思っています。人間にとって全く未知の食べ物が、人間あるいは人間社会にとって価値を持つかどうかは、結局、人間が口にしてみるまでわからないはずです。その果実がどのような機序で生育しているのか(その定理がどのような仕組みで証明されているのか)を、人間にはすぐには全く理解できないのだとしても!
私たちは、生成AIがなければ決して経験することのなかったであろう、熱帯雨林の中を生き延び、探検し、切り拓き、自分たちの生活圏に変えていくという全く新しい研究モード(どうしても暫定的に名前が必要ならば、数学2.0)の出現に立ち会っているのだと思います。私が期待していた「優雅で、気楽で、それでいてワクワクする」ものでは、少なくとも当面は、あり得ないと思います。むしろ「汗だくで、不快」なものになる可能性が高い。しかしそれでも、私たちの周りにこれまでとは全く異なる風景の、巨大な「未知」が出現したのだとすれば、それは間違いなく探求する価値のある研究対象群です。しかも、私たちはまさにその研究対象に取り組む第一世代となります。誰も私たちの身の安全は保証してくれませんが、私たちが取り組むべき全く新しい課題が私たちの前に広がっています。
それは、これまでの数学とは全く異なるものであるかもしれません。突然やってきた環境変化の不快さに舌打ちをしつつも、未知にまっしぐらに向かっていくという性を抱えた研究者のひとりとして、それ以前に数学世界の生物として、自分の中に好奇心と数学世界への闘志が渦巻くのを感じています。